ショートトリップ:京都
こんにちは、むすびです。
気づいたら1週間以上ブログを更新していませんでした(;´・ω・)
実は昨日京都に行っていたんですが、今回はそのご紹介を。
朝6時半という普段なら絶対寝てる時間に起き、慌てて準備。
11時には京都に到着しました。
北の天満宮の梅苑!
この日は天気がベストで一番の見頃でした(*´∇`*)
また、さらには雲ひとつなく梅の綺麗なピンクもよく映えてましたよ。
場所は変わってテクテク歩くこと15分ほど…。(めっちゃ疲れた)
\ドンッ/
ずっと見たかった金閣寺です!
去年学校行事で見に行く機会あったんだけど、点呼ミスで私だけ途中で置いてかれたのよね…泣
そんな苦い思い出を吹き飛ばすかのような威厳のある姿でした。
三島の小説を読んだこともあってずっと気になってた金閣寺。
この日一番の収穫でした╰(*´︶`*)╯♡
その後はちょっと苦いグリーンティーを飲んだりバスで地下鉄まで移動したりしてなんとか京都駅に到着。
そこからようやく大阪に帰るのでした。
疲れたけど京都はやっぱりいいですよ。
お土産は疲れて買えなかったけど…
そんな昨日でした。
それでは、今日はこの辺でd( ̄  ̄)
ご無沙汰しています
こんにちは、むすびです。
ずいぶんブログを更新できていませんでしたね(;´・ω・)
テスト、稽古などでばたばたしていたので…
さて、最近はと言うと現在一応続けている師匠の歴史の勉強が大変だなあと思っています。
忘れた頃に「〇〇年に何が起こった?」なんて問題を出されるので。。。
あと年号、覚えられません(´;ω;`)ウゥゥ
延暦とか全然知らないョ・・・(ヨって古いのかな?)
あと一中節もだんだんと難しい部分に入ってきたので音程がよくズレてしまいます。
耳には自信あったのになあ。
でもその間には師匠の独演会もあったので良い日々でもありました。
あと落語!
「時そば」は見ているとそばが食べたくなりますね。
なので今日のお昼ご飯はおそばにしてもらいます(笑)
では、短いですが今日はこの辺でm(__)m
日本文化 | 落語の紹介
こんばんは、最近家にこもってばっかりなむすびです。
記事の依頼がここのところ相次いで忙しいのですよ…(;´Д`)
学校はあとテストを来週受ければ単位を修得できるのでそこは幸いです。
さて、私はずっとこのブログのテーマについて悩みに悩みまくっていましたが
今回はようやっとこのブログの本筋である日本文化の紹介をしていきたいと思います。
記念すべき第一回目は「落語」!
あれです、笑点に出てくる人たちの本業です。
私が笑点をよく見るのでテーマにしてみました(笑)
では早速見ていきましょう。
そもそも落語とは?
落語というのは、日本の話芸の一つで、物語を語る芸能です。
落語家は身振り手振り、または手ぬぐいや扇子を使って登場人物全てを演じ、その話には「オチ」がつくのが特徴です。
照明や舞台装置こそは使いませんが、落語家によって同じ話でも雰囲気はガラッと変わるのでそこがまた落語の面白さでもあります。
一言でいえば話をする芸という訳ですが、人を引き込む話し方や雰囲気作りなどその人となりが現れるのでは?と私は思いました。
「芸は人なり」といいますもんね。
落語の歴史
安土桃山時代~江戸時代
落語の原型は安土桃山時代にできました。
当時は御伽衆と呼ばれる人たちが戦国大名に使えて話をしたり世情を伝えたりしたのです。
その中の一人安楽庵策伝著の「醒睡笑」には「オチ」のある話をおおよそ1000話が収録されており、彼はこの形式で御伽衆として活躍していたのではないかと言われています。
また、これらの話が元になって今の落語で話される話になったとも考えられています。
江戸時代~現在
江戸時代に入ると今の落語の形ができてきます。
この頃、町民の中から有料で面白く「オチ」のある話を聞かせる人々が現れ始めました。
これらの話は「落とし噺(おとしばなし)」と呼ばれ、話をする人は「噺家」と呼ばれるように。
今でも落語家の事を「噺家」と呼ぶことがありますが、この時代からそう呼ばれていたとは驚き!
この時代、私の地元である大阪では「米沢彦八」が、京都では「露の五郎兵衛」が、そして東京では「鹿野武衛門」が活躍していたそうです。
落語界の現在
落語の話は江戸時代に多く作られましたが現在でも新たな話は作られています。
明治・大正以降に作られた話を「新作落語」といいます。
「新作落語」を得意とする落語家も現れたし、さらに落語の世界は広がっていくでしょう。
また、数は少ないながらも女流の落語家が登場し、男の世界だった落語界もより現代的な形に合わせて変わっていっているのではと思います。
ただ落語界は他の世界と違いかなり大変な一面もあるようです。
まず落語家には階級があり、プロだと認められる「真打」(しんうち)になるには13~16年修行する必要があります。
ところが現代では落語家の数は増えたはいいが真打の人数が増えすぎて新人に仕事が回ってこなくなったのだとか。
さらに落語家の収入源は限定的で寄席のギャラ・独演会のギャラ・出張落語の3つであり、東京の寄席に出られるのは落語協会・落語芸術協会に所属している落語家のみ。
個人的に、東京に落語の権威が集中しすぎていると思うのでそこは時代に合わせてより多くの新人落語家が出られるようにした方がいいのではと思います。
まとめ
いかがでしたか?
ざっとまとめるとこんな感じですかね。
落語は江戸時代から始まったのかと思っていましたが、戦国時代に原型があったとは。
戦国時代、江戸時代といえば今よりも身分や災害に苦しむ事が多かったはず。
娯楽を作り出す人々は嫌なことがいっぱいある世界を少しでも楽しくしたかったのでしょうね。
その姿勢は今の私達も見習いたいですよね。
また、新作落語は「みどりの窓口」など現代を舞台としている分かりやすい話もあるので私達若者におすすめなのではと思います。
落語はニコ動やYouTubeにも沢山アップされているのでぜひこの機会に見てみるのはどうでしょうか?
話が分かりやすく、大爆笑しました(笑)
私と一中節
こんにちは、むすびです。
実は私、一カ月ほど前から「一中節」という邦楽をお稽古させてもらっています。
一中節とは何ぞ?という方が多いので今日はそのお話を。
一中節って?
一中節(いっちゅうぶし)は浄瑠璃の一種。または古典の一。国の重要無形文化財。
初代都太夫一中(1650年~1724年)が元禄から宝永ごろにかけて京都において創始した。先行する浄瑠璃の長所を取入れ、当時勃興してきた義太夫節とは逆に、温雅で叙情的な表現を目指したところに特色がある。三味線は中棹を用い、全体的に上品かつ温雅、重厚を以てその特徴とする。
当初は上方の御座敷浄瑠璃として出発し、世人にひろく愛好されたが、後に江戸に下って歌舞伎の伴奏音楽としても用いられた。その後、ふたたび主として素浄瑠璃専門となって現代に至っている。上方では早く衰退し、現在では東京を中心に伝承されている。一中節自体ははやい時期に細い流れとなってしまったが、ここから出た豊後節および豊後節三流が邦楽に与えた影響ははかりしれない。
三味線を弾きながら物語を語る、いわゆる「語りもの」の一つですね。
そこから常磐津節、清元節と派生していったそうで今でもこれらに関わる方は一中節も習う事が多いのだとか。
また、語りと三味線のリズムが一致しないため難易度は恐らく高い。
さらに一中節は常磐津、清元の後に習うため邦楽の経験がないとかなり難しいと思われます。
特に私の場合、ただでさえ難しいリズム+常磐津・清元経験ゼロなので上達はまだまだ先と思います…(;一_一)
始めたきっかけ
ではなぜそんな難しい音楽を始めたのかというと、きっかけは今の私の師匠でした。
師匠とは元々知り合いだったのですが、10月頃師匠自らが開いた歴史ゼミで再びお会いし、その時初めて一中節の師範である事が分かりました。
そこで能楽の謡「恋重荷」を披露してくださったのですが…
(;゚Д゚)←リアルでこんな反応
その優美な響きと謡(この場合は能楽ですが)に今までにないほど感動したんです。
今まで私の辞書になかった「一中節」が現れた瞬間でした。
それから一カ月経った11月、師匠の独演会があったので聞きに行く事に。
同年代の人はおらず私よりうんと年上の方ばかりでしたが…(;´・ω・)
まあ、周りに邦楽に興味を持つ友達が全くいないのでしょうがない。
その時披露してくださったのが「小春髪結の段」だったのですがこれを録音し家で毎晩ずっと練習。
上達は多分してなかったのですが(笑)、それでも楽しかったのを覚えています。
(ちなみに小春は浄瑠璃の中でもかなり難しいようです)
でもその内自己満足では足りなくなるんですね。
「浄瑠璃を習いたい」とだんだんと強く思うようになりました。
そう思いながらも12月がやってきました。
いつものように歴史などを教えてもらった後、少し浄瑠璃についてどんなものなのか、浄瑠璃の歴史を教えてもらいそこで初めて「浄瑠璃をやってみないか」と言われました。
次の週も能楽の関係で会う予定だったため、考える時間は1週間ほどもらいましたが
翌週には「浄瑠璃を教えて頂こう」と思い一中節の門を叩く事になったのです。
これが私が一中節を始めるまでのお話です。
現在は…
一中節を始めると決めた時は「自分に続けられるのか」ととても心配でした。
それは今でも心にまだありますがなんとか一カ月やってこれました。
今は一中節を習う傍ら師匠から大学受験に向けて歴史を教えて頂いています。
最後に
ここまで読んで下さり、ありがとうございます。
ここまで自分の事を話すのは初めてでしたが個人情報に気を付けて(ビビッて)書いたつもりです。
少なくとも特定はされないかなと。
日本文化に興味を強く持てるようになったのも師匠のおかげですが、これからも歴史・文化の知識は深めていきたいと思います。
では、今日はこの辺でm(__)m
創作活動|霞を掴むような感覚
はじめに
こんにちは?いやこんばんはかな、むすびです。
字体が変えたのですが気づいていただけましたか?
HTMLとかCSSは未経験なのでめっちゃ他のサイトを回りまくってやっとこれです。┐(´д`)┌ヤレヤレ
これからも少しずつサイトデザインは変えていくつもりです。
そういえばこの前NHKの短歌大会がありましたね。
途中でそれを見たんですが、最年少の特賞受賞者としてなんと17歳の高校生の作品が出ていたんですΣ(・ω・ノ)ノ
私も一応高校生ですが、自分と年が変わらない事を考えると羨ましいなあと素直に思いましたね。
今回はその方の作品を見て思った事を書こうかと。
霞を掴むような感覚
どんな短歌かというと、「蝉が死んだのを見て驚く母親の方が怖かった」という日常のワンシーンを切り取ったような内容です。
確かにあるある!な内容ですね(笑)
一見簡単に見えるようで中々出てこないフレーズ、そしてリズム。
同じ年で出てくる言葉が全く違いますね。
私も短歌を作るのに憧れてはいますが、成果といえば中学の時防火標語が佳作に入った事があるだけです。
思いつくことがあっても霞を掴もうとしているような感覚がして結局作れない・・というパターンがほとんどでした。
その感覚を言葉にできるのが詩人、芸術家と呼ばれる人たちなのかもしれませんね。
また、短歌に限らず小説、絵画を創作する時でも同じで、見えない自分の心の中から色や言葉を抜き出していくという事が創作活動の真髄だと思います。
現代の創作活動
特に現代では自分の心を無視して合理的に物事を進める事が良いとされる風潮がありますが、それでは心の中を豊かにすることは難しい。
自分の心の中にあるものを抜き出すのは難しいけれど、でもやっぱり楽しいし、自分を大切にできるのではと考えています。
私達の歴史の中に傑作とよばれる作品が数多くあるのは、昔の人たちが今の私達よりも見えないもの、曖昧な物を大切にして生きていたからかもしれませんね。
私の心はまだ分からない部分、見えていない部分も多いのですがこのブログで少しずつ思っている事を発信できたらと思います。
それによって溜まりがちなストレスも少しは解消出来たらなあ…(;´・ω・)
そんな事を徒然なるままに書いたところで、今日はこの辺でm(__)m
(徒然の使い方間違ってそう)
人生に疲れたら一度は和に触れてみよう
こんにちは、むすびです。
多分昼間に投稿するのははじめてですね。
これまではテスト勉強、WEBライティングなどが忙しかったためできなかったのですが、少し余裕ができたので。
体調も戻りつつあります。
現代社会のスピード
さて、今回はタイトルにもある通り人生と和についてのお話をしたいと思います。
うつ病に代表される心の病の患者は年々増えており、10年以上前の2008年時点で既に100万人を超えています。
なぜここまで増えてしまったんでしょう?
私が思うに、現代社会は物事のスピードが速すぎるからだと思うんです。
「合理的に、効率よく、無駄なく…」私達の理想ですよね。
スピードが速いのは悪い事ではないのですが、今の状況は人間が対応できる限度をはるかに超えてしまっています。
あらゆる情報が飛び交うSNSもこれに当てはまりますね。
私は一時期インスタグラムを使っていましたが、友人の投稿、ストーリーが次々と知らされるのでとても疲れていた記憶があります。
リラックスやストレスを解消する制度を国が整えたとしても、人々がスピードを求めている以上全く効果がありません。
世間に不安があるのも、ピリピリして寛容な社会でなくなるのもこれが原因ではないでしょうか?
和の文化が持つ魅力
そんな状況を打破するヒントは「和」だと思います。
日本の文化の多くはスピードを求めず、あくまでも調和、自然に溶け込む事がメインです。
代表的なのが「能楽」。
能楽師の動き、話すスピードはとてもゆっくりで慣れない人からすればつまらない、すぐに飽きてしまう芸能でしょう。
しかし一つ一つの動きがゆっくりであるからこそ普段とは違う時間の流れ、異なる世界やそこに込められた感情を覗くことができるのではと思います。
この感想が正解かは分かりませんが(;^ω^)
また、邦楽は「間」をとても大切にすると聞いた事があります。
確かにエレキギターなどのように、激しく音を鳴らす楽器は思い浮かびませんよね。
どちらかというと静かな、控えめな音ですかね。
演奏も合間にシンと静かになる瞬間がありますが、邦楽においてはそれがかえって良いとされます。
現代の音楽に慣れた私達には「間」の理解が難しい、というのは常に音の刺激にさらされている状況に慣れてしまっているからなのかもしれませんね。
しかし刺激も度が過ぎると脳を疲労させてしまう原因となり、イライラや気分の落ち込みをひどくしてしまいます。
和はそんな私達の心の薬になり得る存在なのです。
まとめ
ここまでご紹介しましたがいかがでしたか?
和の文化は昔に比べて人々にとって馴染みが薄くなっています。
これまで調和をテーマとしてきた文化が廃れ、効率を求め続ける社会に発展した結果が今の日本ではないでしょうか?
しかし前にもご紹介した通り、スピードも必要なときがあるので必ずしも悪というわけではありません。
調和を大切にする、これが私も理想です。
では、今日はこの辺でm(__)m
能 「恋重荷」
こんばんは、むすびです。
またまた体調不良で2日空いてしまいましたが、今日はまだましです。
さて、今日ご紹介するのは私が初めて知った能「恋重荷」(こいのおもに)です。
あらすじ
白河院の女御という女性を見た庭掃きの老人山科荘司*1は恋に落ちる。
それに対し彼女の臣下は「庭の重荷を運んで何度も往復すれば姿を見せよう」という白河院の女御の言葉を伝える。
それを聞いた荘司は早速荷物を運ぼうと試みるも、重すぎて全く持ち上げられなかった。
ショックを受けた山科荘司は女御への恨みを抱きながら死んでしまう。
実はその荷物には岩が入っており、荘司の気持ちを諦めさせるための方便だったのだ。
女御とその臣下は荘司の死を悲しむが、そこに荘司の悪霊が現れ女御の身体は岩のように動かなくなってしまう。
彼女に恨みつらみを並べ立てる荘司の悪霊。
しかしその内荘司は、きっと女御の守護霊になると約束して消えていくのだった。
ざっとまとめるとこんなお話です。
特に山科荘司が荷物を運べない場面はかなり悲壮感が伝わってくるものになっています。
荷物の重さ=恋心の重さという発想はなかなか粋ですね。
この事から、恋心が人を変えてしまうほどのパワーがあるという考えは、はるか昔に成立していた事が分かります。
個人的には白河院の女御はさっさと山科荘司に気がない事を伝えればよかったのでは…?(;一_一)と思わずにはいられません。
期待を抱かせ続ける事ほど残酷なものはありませんからね。
その反面、荘司の見守る選択、恨み一辺倒で終わらせないところは日本が昔からもつ人情だなあと思いました。
けれど女御にとってこの結末がいいかどうかは意見が分かれるところで、現代ならストーカー扱いされそうなシーンでもあります…汗
そんな価値観のギャップを感じつつ、今日はこの辺でm(__)m